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シンガー・ソングライター金森幸介、その40余年のあゆみと苦悩
2015年はデビュー45周年。50周年はあるのか!?

金森幸介のミュージシャンとしてのキャリアはフォーク・デュオ、小さなオルフェにはじまる・・・・がその前に、金森幸介は10代のころから歌を書きはじめていた。後世に残る名曲「悲しい日々」も彼が18歳のときに書いたものだった。高校生の彼はギターを持ち、近所の産土(うぶつち)神社でひとり、曲作りとギターの練習に励むふりをしながら、当時、恋をしていた「エイコちゃん」を待ち伏せしていたのであった。

映画「パッチギ」でお寺の息子コースケくんはフォークソング狂いで、母親が「京産大でもエエから入ってほしいわ」というセリフがあるが、これは金森幸介とは何の関係もない・・・・が、金森幸介は(京産大ではない)京都の大学に進学することになる。とその前に、進学を目前に控えたコースケくん、否、金森幸介は毎日放送の「ヤングタウン」の<今月の歌>コーナーのオーディションを受けていた。ソロ・シンガーとしてオーディションを受けたのだが、同番組のプロデューサー、渡邊一雄から「もうひとりソロ・シンガーがいてるから、彼とデュオを組みなさい」といわれたりした。恐ろしいゲーノー界のタテ社会。プロデューサーの命令とあれば、たとえ金森幸介でも「No!」とは首を振ることができず、もうひとりのソロ・シンガー高階真とデュオを組むことになった。「小さなオルフェ」という名は、高階真が考えてきたものだと金森幸介はいっている。
1970年、「みずいろのポエム / ロンド」でデビュー。所属レコード会社クラウンレコードでお茶くみをする水前寺清子を目撃するという幸運に恵まれる。しかし「チータほどの人でもスタッフにお茶を入れるのだ。キミたちも彼女のような立派な歌手になりなさい」とレコード会社の担当ディレクターから説教されるが、「みずいろのポエム」はめでたく同年2月の「ヤングタウン」<今月の歌>コーナーに採用されたのであった。
大学生としての初めての夏。アルバイトに精を出すこともない金森幸介は、前出の渡邊一雄から「夏休みを利用して東京へ行ってきなさい」という助言に反論することもなく、素直に箱根の山を越えた。
同年、阿久悠作詞の「ブルース田園」を発表するものの、後年、阿久悠追悼番組にはお声がかからず。帽子を少し斜めにかぶったりするものの沢田研二にも見えず。ベレー帽をかぶっても桜田淳子ようにはなれず・・・・どこにいるのか?コースケの青い鳥。
本人の記憶によると「ブルース未完成」という阿久悠作詞の曲もあったとか・・・・その予言通り、「金森幸介・未完の大器」といわれて早40年。いつになったら花開くのか? それでも「ブルース田園」のB面に収録した「九月の風に」はMBS「ヤングOH! OH!」の今月の歌エンディング・テーマに。さらに金森幸介の躍進はつづく・・・・と思う?
関西テレビ「ヤング・マガジン」に都会の村人としてレギュラー出演。オマケに加川良とのラジオ番組「チャチャヤング」にも金森幸介はディスクジョッキーとして出演。「関西フォーク界のWヤング」・・・・とは誰もいわなかった。72年には都会の村人のアルバム『退屈しのぎ』を発表。シングル「退屈ですね / 窓をあけよう」「詩集 / さよならもいわず」も世に出す。翌年、I.M.O.バンドで活動。アルバム『Cata-Coto』を発表後に、収録曲「あきかんけってみよう」がまたしても「ヤングOH! OH!」のエンディング・テーマに・・・・とここまでが「金森幸介=ヤングな日々」・・・・である。
テレビやラジオ出演、バンド活動とアルバム、シングルの発表と貪欲にヒットを狙いにいく金森幸介であったが、打球は内野手の間を抜けることもなく75年、(懲りずに)ソロ・アルバム『箱舟は去って』を発表。時を同じくして五つの赤い風船 ’75 (今日でいうところのハロプロみたいなもの)にも参加。翌年にはソー・バッド・レヴューをバックにレコーディングした2nd.アルバム『少年』がレコード店に並ぶと、金森幸介はロサンジェルスへ。すると無謀にも海外レコーディングを敢行。バックには何よりも心強いソー・バット・レヴューのリズム隊。恵まれない天才ドラマー、ベーカー土居。迎え撃つはロサンジェルスきっての奇人変態常識人デヴィッド・リンドレー。しかしこちらには日本を代表する変態ピアニスト国分輝幸。怯むことなく金森幸介は「かけおち / 旅の途中」を録音した。
勢いづくと止まらない、まるでジャム・バンドのような金森幸介のワーカホリックな日々は、1975年で小休止を打つことになる・・・・というのはレコーディングという形態においてのみのこと。70年代後半からの彼はコールド・ラビッシュを従えブロークン・ウィンドウ(かなりハード・ロック)、さらには有山じゅんじ、内田勘太郎をそのバンドに加えたロックンロール・ジプシー(もっとハード・ロック・・・・というよりうるさい)を結成し、お得意の「喋くり」をエレキ・ギターに置き換えることとなった。80年代に入るとツゥイン・ドラム、スティール、エレキ、アコースティック・ギター、ハーモニカ、マンドリンからなる11人編成のバンド、ザ・メロウを結成。しかも全員がコーラスをとるというオマケつき・・・・その変幻自在の演奏活動を人は「ひとりインプロヴァイザー」と呼ぶ(何のこっちゃ?)。
そんな金森幸介が久々にアルバムを発表したのは20世紀も押し迫った1997年のこと。前年秋に野外音楽堂を借り切りレコーディングした『緑地にて』が彼の怒涛の快進撃のはじまりであった。99年には『静かな音楽となった』を、「こんなわたしをミレニアム」といっていた2000年『LOST SONGS』、翌01年には『金森幸介』、CD5枚組『50/50』をなぜか? 発表する。その翌年からは「金森幸介ライヴ・シリーズvol.1」(02年)「vol.2」(03年)も勢いよく発射!!
そして2008年3月・・・・ホイホイレコードと手を組み、ライヴ終演直後に、その当日のライヴをレコーディングしたCD(-R)を発表する新たな行動に踏み出した。東京での4公演すべての会場(すべてセット・メニューは異なる)においてライヴ・レコーディングされ、その都度、ライヴCD(-R)ができあがるというシステム。これはなんとも新しい! 加えてアーティストとしては潔い!!姿勢である。なにしろ金森幸介本人は自身の作品でありながら、それを聴くことなく世に出てしまうわけなのだから・・・・このようなポップ・シンガーは日本には存在しなかった。それだけでチータのようにお茶くみをしなくても、客席よりも頭数の多いバンド活動をしていてもいいだろう。オールド・マンになっても金森幸介の「ヤングな日々」はつづくのである。